動画タイトル:東京電機大学Flight Works【鳥人間コンテスト2008】
専修大学
専修大学は、1880年9月16日に相馬永胤・田尻稲次郎・目賀田種太郎・駒井重格らが開校した「専修学校」が母体となって設立された大学である。 専修学校は当時の東京府への開校届出を1880年8月7日に登記し、早期に設立された本格的な私立法律・経済学校となる。設立当時の校舎であった京橋区南鍋町の簿記講習所、木挽町の明治会堂は福澤諭吉の提供、尽力による。明治会堂跡地(現在の東京都中央区銀座3丁目)には、専修大学発祥の碑が設けられている。公家菊亭家の文書である「菊亭文庫」や、フランスの書誌学者であり、古書籍商でもあったミシェル・ベルンシュタインが40数年の歳月をかけて収集したフランス革命関連資料「ミシェル・ベルンシュタイン文庫」の所蔵でも知られている。
大阪大学
豊中キャンパスの正門 大阪大学は、天保9年(1838年)に緒方洪庵により設立された適塾を直接の源流としている[1]。適塾は明治元年(1868年)に閉鎖されるが、翌明治2年(1869年)設立の浪華仮病院および仮医学校に教師・塾生が移籍し、これが改組・改称を経て現在の大阪大学医学部となっている。当時、長崎へ遊学した慶應義塾創立者である福澤諭吉が蘭学レベルはこの適塾の方が先端を行っているということを教えられ、この塾へ入門し1857年(安政4年)には第10代塾頭となっている。なお、大阪大学は、懐徳堂(1724年設立)とも関係がある。懐徳堂は1869年に閉鎖されるが、1910年(明治43年)に懐徳堂記念会の設立(のちに財団法人化)、最後の預人中井桐園の嫡子中井天生らの尽力で、1916年(大正5年)の重建懐徳堂の設立により再興を果たした。戦後の1949年(昭和24年)になり、懐徳堂記念会が懐徳堂蔵書を大阪大学に寄贈したことで両者の繋がりができた。現在、財団法人懐徳堂記念会事務局は大阪大学文学部内にあり、大阪大学が初期の懐徳堂に関するものも含めて管理している。しかし、懐徳堂と重建懐徳堂との間には半世紀近い空白があり、教育機関としての歴史的連続性がないため、大阪大学は懐徳堂を同大の学問的系譜[2]とは言うものの、同大の前身とは言及していない。旧制大阪医学校を母体に1915年に府立大阪医科大学へ改称、1931年に台北帝国大学に続く第7番目の帝国大学となる。1933年(昭和8年)には旧制大阪工業大学を合併、戦後の新制大学への改組を経て、2004年に国立大学法人化、2007年10月に大阪外国語大学と統合した。国立大学法人として外国語学部を設置しているのは、大阪大学と東京外国語大学の2大学しかない[3]。また統合後の1学年あたり学生定員は、国立大学で最多の3245人となった(2位は東京大学で3053人)[3]。
筑波大学
1872年(明治5年)の師範学校設立を創基とする東京教育大学が前身となる。1970年代、大学紛争による大学改革議論の中で、1973年10月に新しい大学像のモデルとして、東京教育大学を母体とし、設置された。設置場所には議論があったものの、最終的に筑波研究学園都市建設の一環として茨城県新治郡桜村(現在のつくば市)に開設された。筑波大学は筑波キャンパスの他に旧東京教育大学の校舎・敷地も所管しており、東京都文京区大塚の旧東京教育大学の本部は東京キャンパス大塚地区として、首都圏にある附属学校を統括する学校教育局と社会人対象の夜間大学院である大学院ビジネス科学研究科、各種研究センターが設置されている。また、つくばエクスプレス線の開業を受けて秋葉原に東京キャンパス秋葉原地区を置き、こちらは法科大学院などで使用している。現在の国立科学博物館は1889年から1914年に「東京教育博物館」として再独立するまで、東京高等師範学校の附属機関として存在した。前身の東京教育大学は、4つの学校(東京文理科大学、東京高等師範学校、東京農業教育専門学校、東京体育専門学校)を母体としており、さらに筑波大学になってからも2002年に図書館情報大学と統合するなど、様々な機関の歴史を背景に現在へと至っている。



